「鷲塚城主水野忠重と片山家」展
碧南市文化財展

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 昨日11月15日(木)、碧南市文化会館で開催されている「鷲塚城主水野忠重と片山家」展に行ってきました。
 東浦の緖川を発祥の地として、水野家は発展していきます。水野忠政は東浦から刈谷へ勢力を伸ばします。忠政の子於大は家康の生母です。後の徳川幕府を築くことになります。
 水野忠政の子信元が讒言により殺されて、その弟忠重が後を継ぐことになります。忠重の子勝成は刈谷城主、福山城主となり結城水野家へ継承されていきます。

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水野忠重像
 一方、忠重の子忠清は大浜・沼津水野家に継承されていきます。碧南の基を築いた大浜藩が創られて250周年ということで、この文化財展開催となりました。
 大浜藩は8年でなくなって中心は沼津に移っても、水野家は大浜陣屋で大浜を飛地支配をして、碧南発展のために大きな功績を残します。その大浜発展に尽くしたもう一つの力、片山家について最近研究が進み明らかになった来ました。その片山家にに関する展示もされていました。
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片山家によって創られた矢作橋 1674

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 今から250年前の明和五年(1768)、旗本水野忠友は加増を受けて一万三千石となり大浜に陣屋を築いて大浜藩を立藩しました。その後忠友は幕府の要職につき、沼津に広い領地を頂き、藩の中心は沼津に移り、大浜藩の名はわずか八年で消え沼津藩となりましたが、大浜藩であった地域は沼津藩の飛び地として大浜陣屋の支配を受け、今の碧南の基となりました。
 一方戦国時代末期、現在の碧南市尾城町に鷲塚城を築き、城主となったのが忠友の先祖水野忠重です。忠重が鷲塚城城主となったきっかけが、江戸時代、鷲塚村の庄屋を勤め鷲塚湊の廻船問屋でもあった片山家です。戦国時代の刈谷城主である水野信元(忠重の兄)と不仲になった忠重が、片山家へ身を寄せていたからです。
 最近、片山家文書が読み解かれ、今までの歴史書と照らし合わせながら新たな視点で鷲塚や矢作川流域の歴史が明らかになりました。今回の文化財展はこの片山家文書を中心に、これに関連する周辺資料や、想像絵図等が展示されています。